叱ることは叱る側が気持ち良くなるだけ!
人は叱られることがきらいです。
大きな声で怒られると、恐怖や不安を感じて、とても嫌な気持ちになります。
そもそも叱って意味があるのかというと、残念なことに何もないのですよね。
要するに、怒られた側はただの怒られ損になるわけです。
今回は、どうして叱るのだろうというお話です。
結局は、叱っても意味がないし、逆にデメリットしかないのでした。
上司から叱られたり、我が子を叱る方向けです。
何かの参考になれば嬉しいです。
叱ることが多い上司や親はそこに快楽を感じている
人は叱られると反省し、考えや行動を改めます。
ですが、本当に反省しているわけではなく、
ただ叱られたくないという理由で行動を変えているのです。
では、叱ることについて、考えてみましょう。
相手のためを思ってという大義名分を用いるけれど、
叱るという行為には、次のような特徴があります。
- 快楽を満たす行為である
- 依存性がある
- 権力構造が関係している
- 攻撃性を伴う
ということです。
快楽を満たす行為である
叱ることで、叱る側の快楽を満たすことができます。
- 処罰欲求を満たす
- 自己効力感の充足
です。
本人は気づいていないことが多いでしょうが、
無意識に自分のストレスから逃れるために叱るという行動にでているのです。
依存性がある
叱ることで、脳内から快楽物質のドーパミンが分泌されます。
これがあるから、快楽を感じるのです。
このドーパミンによる快楽は、依存性があり、もっともっとというように、
次第にエスカレートすることが多いです。
権力構造が関係している
叱るというのは、権力のある側が権力のない側に行っています。
会社の上司が部下に、家庭の親が子にといった関係で起こります。
攻撃性を伴う
もし、部下や子どもに対する指導に、攻撃性がないのであれば、
諭したり、言い聞かすことでことが終わります。
一方で、攻撃性が伴う場合は違ってくるのです。
過ちや罪を指摘し批難したり、なじることをします。
それには、相手にネガティブな感情を喚起したいという欲求があるからです。
そのネガティブな感情を喚起させる目的は2つあります。
1つ目は、相手は自分が望むとおりに行動してくれるからです。
相手が自分の望む通りの行動をするようになることで、自己効力感を得ることができます。
これが快楽になって、
- 自分の行為には影響力がある
- 自分の行動で良くなった
と考えるようになるのです。
2つ目は、理解してくれると思うからです。
叱ることで、相手が叱る側の意図を理解してくれたわけではなく、
恐怖に対する放映システムが機能しているだけなのです。
言葉を用いてネガティブな感情体験(恐怖、不安、苦痛、悲しみなど)を与えることで、
相手の行動や認識の変化を引き起こし、思うようにコントロールしようとする
行為ということです。
つまり、叱ることは相手を支配することなのです。
誰かを叱ることで、叱る側の処罰欲求を満たすことができます。
叱る
処罰欲求を満たすことができる ドーパミンが分泌する 快楽という具合に、指導という名目で叱る側は心地良くなるという事実が浮かんできます。
叱られる側からすると、たまったものではありませんね!
叱ることが指導とみなされるというのは、日本の社会的文化になっています。
このために、こういうおじさんが量産されていくのです。
部下の話を聞かない上司。
一方的に、
話が長く、
コミュ力に問題のある
オレ様系おじさんです。
叱ることが多いパワハラ上司の被害を受けたりキレる親であった
かつての私は、パワハラ上司に叱られたり、家族の前でキレることがありました。
人事異動でパワハラする人が上司になってから、
毎日のように私は叱られました。
自分を大きく見せようとしていることは感じていましたが、
何かあると大きな声で恫喝するので、
恐怖で自分の意見を言えるい状態ではなかったのです。
会議では、意見を求められるので発言すると、その内容がダメだと怒鳴られ、
上司からの内線電話に出て、叱られ、
上司の部屋に呼び出されて、行くと最後には叱られる流れになっているのです。
何を言っても聞き入れてもらえなかったので、
私は、とにかく悪くなくても言い訳せずに謝ることに徹しました。
私が謝ることで話を終わらせようとしても、次の話題で叱られる始末。
大人のイジメとしか言えない状況でした。
今考えてみると、私を叱ることで快感を得ていたのだなぁと思います。
職場では攻撃される側でしたが、家庭では攻撃する側になっていました。
私はこよなくお酒を愛していました。
仕事からの開放感を味わうために、毎日晩酌をしていました。
お酒に酔うと、上司のように権力のない側の家族の話を聞き入れなくなり、
ブチ切れることがありました。
まさしく、指導という名目の快楽を得ていたのです。
私自身も、薄々感じていたことですが、家族に対して怒ることで、
スカッとしていたのです。
恐怖政治で自分の思い通りになっていた家族ですが、
そのうちに思い通りにならない子がでてきたのです。
小さいのに、私の行動に納得がいかず、異を唱えて来るようになりました。
異を唱えられた私は、もちろんブチ切れます。
そうしていくうちに、親子の関係がぎくしゃくするようになったのです。
そのこととは関係なく、しばらく経ってから、私は仕事を辞める決意をします。
その際に、いろいろな事を考えました。
これまで、仕事一筋で見えなかったことがたくさんあることに気がついたのです。
世間体や、常識など、当たり前だと思っていたことが、ことごとく崩れていきました。
その中に寛容さもあり、親だから、大人だからといって、
絶対正しい考えや行いをしているわけではないのです。
子どもの考えを聞き入れることはともて大切なことだったと気がついたのです。
たとえ間違っていたり、失敗することがわかっていたとしても、
自分の責任でやらせてみることが重要なのです。
「ダメだ!」から「やってみれば」に変わりました。
抑圧することをやめると、すぐに昔のように明るい家族に戻ることができたのです。
叱って行動を改めさせるより、自分で考えて経験することのほうが、
いい結果につながるのです。
▼参考記事
私が仕事で上司や同僚から攻撃を受けると、
私が大切な家族に攻撃をしてしまっていたという
愛がなく誤った行動をしてしまいました。
少し遠回りしましたが、その間違いに気づくことができて、とても良かったと思います。
まとめ:叱ることが多い上司や親はそこに快楽を感じている
相手のためを思ってという大義名分を用いるけれど、
叱るという行為には、次のような特徴があります。
- 快楽を満たす行為である
- 依存性がある
- 権力構造が関係している
- 攻撃性を伴う
ということです。
叱ることで、叱る側の快楽を満たすことができます。
- 処罰欲求を満たす
- 自己効力感の充足
です。
相手が自分の望む通りの行動をするようになることで、自己効力感を得ることができます。
これが快楽になって、
- 自分の行為には影響力がある
- 自分の行動で良くなった
と考えるようになるのです。
叱ることで相手が自分の意図を理解したわけではなく、
恐怖に対する放映システムが機能しているだけなのです。
叱ることが指導とみなされるというのは、日本の社会的文化になっています。
このために、こういうおじさんが量産されていくのです。
部下の話を聞かない人。
一方的に、
話が長く、
コミュ力に問題のある
オレ様系おじさんです。
かつての私は、パワハラ上司に叱られたり、家族の前でキレることがありました。
それから色々経験し、子どもの考えを聞き入れることは
ともて大切なことだったと気がついたのです。
たとえ間違っていたり、失敗することがわかっていたとしても、
自分の責任でやらせてみることが重要なのです。
「ダメだ!」から「やってみれば」に変わりました。
抑圧することをやめると、すぐに昔のように明るい家族に戻ることができたのです。
叱って行動を改めさせるより、自分で考えて経験することのほうが、
いい結果につながるのです。
私が仕事で上司や同僚から攻撃をうけると、
私が大切な家族に攻撃をしてしまっていたという
愛がなく誤った行動をしてしまいました。
少し遠回りしましたが、その間違いに気づくことができて、とても良かったと思います。
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